演出者協会の6日間に渡ったデバイジングシアターWSに参加した。講師のアンドリュー・チャンさんのいる香港と東京会場と京都会場をZoomで結んでの講座。
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5年ほど前にデバイジングシアターWSにふれたことがあった。その時は今一つ核心を手に入れられず、自身の創作に積極的に取り入れることが出来ないままだったから、6日間を連続で空けるのは簡単じゃないけど諸々調整して協力してもらい参加したが、参加して良かった!とても分かりやすかった。実はこのやり方は役者として私自身体験したことがあったし、自分の演出作品にもその要素を取り入れていたってことも分かった。


日本ではまだほとんどの創作現場がそうだと思うが、演者はすでに出来上がった台本を覚えて演出からの指示を上手にこなして表現する駒に終始する。それは1ヶ月前後の短い稽古時間しか確保できない現実から”そうせざるおえない”場合もしばしば。


デバイジングシアターは作品のシーンを、演者自身の提案した要素で作っていくという方法。
演者がテーマを理解し、理解したことを言語や身体表現でプレゼンテーションし、さらにグループで討論を重ねポイントを絞り、他の人のプレゼンテーションとも融合させて行きながらシーンを立ち上げ、テーマに繋がる様々なイメージを言葉や身体表現や音や映像も含めて舞台上に複合的重層的に表出させることで1本の作品が立ち上がって行く。


とても豊かで可能性の大きい方法だと改めて思った。演者として創作に貢献している充実感もあるし何より楽しい!次の創作では徹底してこの方法を使ってみたい。

ただ一番の問題はこの方法をとる上で欠かせない「討論」。討論慣れしていない日本人同士で討論が成り立つのかということにある。

・討論は勝ち負けではない。
・誰かの発言はさえぎらずに最後まで聞く。
・年齢も経験も全ての違いはただ違いとしてあるだけでグループ内に序列をつけるものではない。
・上下ではなく、水平の視界と関係性で対話することから始めること。

これってさ、民主主義・デモクラシーってことでしょ。

アンドリューさんも討論する上で一番大事なことは「平等」であることと言っていたけれど、まさにそこが最初の一歩であり、一貫して外せないルールだと私も思う。


アンドリューさんは普段作品を創作するには3ヶ月かけるそうだ。なるほど、民主主義は時間のかかる意思決定方法で忍耐力を要するんだよね。


話は剃れるが今国会の議論はかなりまともだ。安部政権の頃は本当~に酷かった。質問の意味をはぐらかす。まともに答えない。質問者を揶揄して馬鹿にする。首相自らが野次を飛ばす。それに追随して他の大臣の答弁もそう。さらには何を勘違いしてるのか、野党である維新がジャイアンにおもねるスネオ化して野党批判。学級崩壊ならぬ国会崩壊。すっかりその意味が失われてしまっていた「言論の府」の本来の姿が取り戻されつつある。トップが替わるって大事ね。



今回のWSのテーマは「三島由紀夫」

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私は彼自身のことが正直好きになれず、これまで近代能楽集くらいしか読んでなかったけど、京都会場では「三島由紀夫の生涯についての本/資料」を題材にするとのことで、アマゾンで熊野純彦 著「人と思想 三島由紀」を注文し届いたのが2日前。付け焼刃も良いところだが慌てて読み、アンドリューさんからの更なる宿題も有り、三島由紀夫その人の生涯や家族を調べ続けた6日間だった。

やっぱり、”人は人として出会わないと分からない-三島由紀夫もしかり”だ。「天才」「美」「切腹」「同性愛」とかの単語やイメージだけじゃ見えてこないのだ。天才と言われた彼もオギャーと生まれたときから三島由紀夫だったわけじゃなく、時代や家庭環境の中で三島由紀夫という者になっていった。三島由紀夫の本名平岡公威の祖母の尋常ならざる様はあらゆる伝記で触れられていることだが、この祖母の存在が面白いし三島由紀夫を三島由紀夫たらしめたのはこの祖母の存在が大きいだろう。月並みな言い方だが、彼の人生もまた痛みと哀しみと可笑しみに満ちてる。

俄然興味が湧いてきたので改めて彼の作品を読もうと短編「彩絵硝子」を読み始めたら即効寝落ちしてしまった。
まあね~やっぱり長年避けてきたのにはそれなりに理由があるとも言えるのだ。


香港在住のアンドリューさんとも6日間のWSを通じて人と人として出会った。
民主主義・デモクラシーだから成り立つデバイジングシアターの方法で創作しているアンドリューさん。カフカやブレヒトやパゾリーニを題材にして来た彼の創作が今後どうなっていくのか?

香港の今後から目が離せなくなった。