寒い。今日は寒くて目が覚めた。
当たり前だけどすごいこと・・・季節はちゃんとめぐり、あの異常な暑さにうんざりしていた夏が急激に遠のく。
SCARECROWS 「るつぼ」 9/15-9/22 全10回公演
作品、公演の詳細は http://scarecrows.sitemix.jp/blog/
もう終った作品だけど、少し書こうかな。自分への区切りの為に。
難しい作品だった。16世紀、アメリカ・マサチューセッツ州で本当に起きた魔女狩りの話を元に、アーサー・ミラーが1950年代に書いた戯曲。
しかし、この作品の持つパワーは本当に強烈だった。そして実にいい台詞が一杯あった。人間の愚かしさと愛しさとを、如実に表した台詞の数々。
キリスト教の精神を生活の支柱に持ち、神との契約を”絶対”と考えて生きている登場人物。
仏教と神道が”良い塩梅”で混在している文化背景を持つ日本人の私には、咀嚼し難い思考と価値観。しかし・・・それはどこか身近で見た風景。これが絶対なんだと価値観を押し付けられて、思考停止をしてしまった人々。
大体、”絶対”なんて考え方が古いよ!その上、1950年代にアメリカに吹き荒れたマッカーシズムへの怒りに満ちた、アーサー・ミラーの台詞は重過ぎるよ!なんて文句言いながらも、作品がどういう土台の上に建てられているかを理解することを避けては通れない。
いつも思う、役との出会いは他者と出会うことと同じ。自分の中には無かった感情や、価値観や、思考回路と出会うこと。
役を捉えて、台詞を言う・・・この作業のイメージは、その異質なものを一旦無理やりにでも飲み込んで’自分とぐちゃぐちゃっとミックスさせ、自分の言葉かのように吐き出すイメージ。
これまで演じた沢山の役の中には、心身が猛烈に飲み込むことを拒否したものも有ったなあ~。
今回私が演じた エリザベス・プロクタは、夫を、若く美しい女中に寝取られた、3人の子持ち。夫と子供にだけ目を向けて、家庭の中で人生の大半を生きて来た女性。
家庭の中に走った亀裂。彼女の愛情と、絶望と、嫉妬と、自己嫌悪。
彼女の立場での(末の子供を産んだばかりのタイミングで、同居している女中が夫の浮気相手)”嫉妬”と言う感情は、夫も子供も持たない私が知っている嫉妬とは、重たさと深さが違って来るように思う。辛くて痛くて残酷で、嘔吐に似た感情。
その上、この作品は短い間合いで劇的な事が次々起こる。劇みたいに!・・・そう、だから良く出来た劇なんだと改めて思う。
エリザベスは、夫との関係をゆっくりと癒す間も無く、抗いようのない”るつぼ”に飲み込まれて行く。
彼女を捉える作業は難しかった~。そして彼女は病弱だった!結局ここが一番大変だった。だって私ってさ、人一倍健康そうでパワフルだし・・・でも芝居作りにおいては難しい事が大好きだ。「わかんないよ~難しいよ~」と言ってるときは、「楽しいよ~嬉しいよ~」と言ってるのと同じです。
そして役を捉える作業には終わりが無い。絶対が無いように、芝居にも完成は無い。のじゃないかな?と最近思うようになった。
でも、観客には完成により近いところを見せたいと、本番前の稽古場では全員があがく。それも本当です。
こうして公演が終った今、ゆっくりと作品と役が自分から抜けて行く。割と好きな時間。時間の経過とともに役との密着度は益々薄まって行く。
でもきっと、何かの拍子に、ちょっと残念だな・・・ちょっと悔しいな・・・というシーンが蘇る。そしてあるとき、ふとした瞬間に彼女を、この作品を、更に深く理解するときが来るような気がする。今の私が負っている時間の重み、人生の深さでは理解しきれなかった”何か”をいつか・・・
私達は死ぬまで生きる。終わりの日を迎えるまでは、常に経過の途中にいる。誰も皆、人生に於いて起きたことは、良い事も悪いことも、どんな些細なことも、辛く悲しいことも、”無かったことには出来ない。だってそれは有った事だから”(芝居の中でもパリス牧師が言ってたね・・・)
だから、ちょっと不思議な感覚なんだけど、虚構の作品世界の中であっても、起こった出来事に対して動いた感情は、事実なんだな・・・
そして多くの場合、経験は人の器を広げてくれる。
この公演に関わった全ての人との出会いは、私に間違いなく貴重な経験をもたらしてくれたと思う。
有り難い。
当たり前だけどすごいこと・・・季節はちゃんとめぐり、あの異常な暑さにうんざりしていた夏が急激に遠のく。
SCARECROWS 「るつぼ」 9/15-9/22 全10回公演
作品、公演の詳細は http://scarecrows.sitemix.jp/blog/
もう終った作品だけど、少し書こうかな。自分への区切りの為に。
難しい作品だった。16世紀、アメリカ・マサチューセッツ州で本当に起きた魔女狩りの話を元に、アーサー・ミラーが1950年代に書いた戯曲。
しかし、この作品の持つパワーは本当に強烈だった。そして実にいい台詞が一杯あった。人間の愚かしさと愛しさとを、如実に表した台詞の数々。
キリスト教の精神を生活の支柱に持ち、神との契約を”絶対”と考えて生きている登場人物。
仏教と神道が”良い塩梅”で混在している文化背景を持つ日本人の私には、咀嚼し難い思考と価値観。しかし・・・それはどこか身近で見た風景。これが絶対なんだと価値観を押し付けられて、思考停止をしてしまった人々。
大体、”絶対”なんて考え方が古いよ!その上、1950年代にアメリカに吹き荒れたマッカーシズムへの怒りに満ちた、アーサー・ミラーの台詞は重過ぎるよ!なんて文句言いながらも、作品がどういう土台の上に建てられているかを理解することを避けては通れない。
いつも思う、役との出会いは他者と出会うことと同じ。自分の中には無かった感情や、価値観や、思考回路と出会うこと。
役を捉えて、台詞を言う・・・この作業のイメージは、その異質なものを一旦無理やりにでも飲み込んで’自分とぐちゃぐちゃっとミックスさせ、自分の言葉かのように吐き出すイメージ。
これまで演じた沢山の役の中には、心身が猛烈に飲み込むことを拒否したものも有ったなあ~。
今回私が演じた エリザベス・プロクタは、夫を、若く美しい女中に寝取られた、3人の子持ち。夫と子供にだけ目を向けて、家庭の中で人生の大半を生きて来た女性。
家庭の中に走った亀裂。彼女の愛情と、絶望と、嫉妬と、自己嫌悪。
彼女の立場での(末の子供を産んだばかりのタイミングで、同居している女中が夫の浮気相手)”嫉妬”と言う感情は、夫も子供も持たない私が知っている嫉妬とは、重たさと深さが違って来るように思う。辛くて痛くて残酷で、嘔吐に似た感情。
その上、この作品は短い間合いで劇的な事が次々起こる。劇みたいに!・・・そう、だから良く出来た劇なんだと改めて思う。
エリザベスは、夫との関係をゆっくりと癒す間も無く、抗いようのない”るつぼ”に飲み込まれて行く。
彼女を捉える作業は難しかった~。そして彼女は病弱だった!結局ここが一番大変だった。だって私ってさ、人一倍健康そうでパワフルだし・・・でも芝居作りにおいては難しい事が大好きだ。「わかんないよ~難しいよ~」と言ってるときは、「楽しいよ~嬉しいよ~」と言ってるのと同じです。
そして役を捉える作業には終わりが無い。絶対が無いように、芝居にも完成は無い。のじゃないかな?と最近思うようになった。
でも、観客には完成により近いところを見せたいと、本番前の稽古場では全員があがく。それも本当です。
こうして公演が終った今、ゆっくりと作品と役が自分から抜けて行く。割と好きな時間。時間の経過とともに役との密着度は益々薄まって行く。
でもきっと、何かの拍子に、ちょっと残念だな・・・ちょっと悔しいな・・・というシーンが蘇る。そしてあるとき、ふとした瞬間に彼女を、この作品を、更に深く理解するときが来るような気がする。今の私が負っている時間の重み、人生の深さでは理解しきれなかった”何か”をいつか・・・
私達は死ぬまで生きる。終わりの日を迎えるまでは、常に経過の途中にいる。誰も皆、人生に於いて起きたことは、良い事も悪いことも、どんな些細なことも、辛く悲しいことも、”無かったことには出来ない。だってそれは有った事だから”(芝居の中でもパリス牧師が言ってたね・・・)
だから、ちょっと不思議な感覚なんだけど、虚構の作品世界の中であっても、起こった出来事に対して動いた感情は、事実なんだな・・・
そして多くの場合、経験は人の器を広げてくれる。
この公演に関わった全ての人との出会いは、私に間違いなく貴重な経験をもたらしてくれたと思う。
有り難い。
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