9月中に是が非でも終わらせたかった事務処理を何とか終わらせ、月末最終日に大きな支払いも済ませた。頭と心がすっきりした。支払う事が出来て本当に良かった。これで遠慮なく次の案件に向き合える。一つ終わって次に行くのが絶対良いに決まってる。終わり切らないと集中できない。でも、わたしのような自電車操業、貧乏人生は、常に常に様々なことが同時進行だ。倒れず走れているだけ上出来と思ってます。


27日、甥っ子に子供が産まれた。
甥っ子は姉の長男。両親にとっては初孫で男の子。私にとっても初めての甥っ子。
大人たちがべたべたに可愛がったから、甥っ子はちょっと王子様みたいな性格になっちゃった。
実際女の子みたいに可愛い男の子だった。
目がでっかくて、頬っぺたと唇がパあ~とピンクで、ぼんやりといつも空想の世界に浸ってるような男の子だった。
道を歩けば「可愛い~」なんて見知らぬお姉さんから黄色い声が上がってた。

その彼が父親になった!?
産まれたのは男の子だ。まだ動画でしか見てないけど、ぷっ~!くりとして、しっかり泣き声あげてた。
姉は53歳にしておばあちゃん。
母は78歳にして曽ばあちゃん。
私はなんだ?やっぱり大おばさんか?
なんか凄い。巡ってる。

父は、なんて言ったかな?
まあ喜んだろうね。
あのだみ声で,、「やった~!」とか「いえ~い!」とか、昭和な雄たけびを上げただろう。
あの声は、怒ってるのかと周りはびっくりするけど、本人は喜んでるんで分かりにくくて。
後一年頑張ったら曾孫に出会えたのにね。

まもなく10月3日、父の誕生日。そして1周忌。

去年の9月30日、台風24号が日本列島通過中に京北病院に救急搬送。
10月2日の夜には危篤。
もう本当にあれよあれよという間に、嵐のように逝ってしまった。

何だったんだろう父の人生は。アップダウンの激しい人生。
父は腹の虫が収まらない人だった。父なりの正義感が強くて、よく怒ってた。昭和な雷親爺。喜怒哀楽ではなく、喜怒怒怒怒怒怒怒・・・

最後の十年は癌と戦って。癌が消えたと言っては喜び、再発したと言っては落ち込んで。又がむしゃらに戦い。戦う事を止められなかった。癌と共生するとか、笑うことで癌が消えるとか、切ったり叩いたりするんじゃない治療とかが理解できなかった。西洋医学万歳。化学絶対。東洋医学的な思考は迷信だと思ってた。もうちょっと待てば、そこも納得したのかもしれない。私が京都に戻ってからは、そんな兆しが見えてたんだけどな。身体の使い方と心の使い方が、これまでの父が知ってた方法とは違う方法があることを伝えたくて、もっと心地よい、ストレスにならない方法を知って欲しくて、アレキサンダーテクニークとか、NVCについて話したことも有った。
でも本人とにかく、私に何か言われるのが癪に障る。そこには理論的な理由は無いんだけど、薬の副作用で便秘が酷いというから、腹式呼吸を教えた。しっかり腹式呼吸すると腸が刺激されて便秘にも効くからと。でもその説明を聞いてるときの父の目が本当~に疑わしそうで、嫌々だけどやってやるわい!ってポーズ。
私に何か言われると全て偉そうに聞こえる。私の標準語も腹が立つ。で、めでたく便秘は解消されて、良かったじゃ~ん!と言っても、それにたいしての返事は「まあな・・・」だから。ほとんど子供。そこまで普通の会話が出来ない親子なんて笑い話みたいなもんだ。しかしそれからは、私が渡したアレキサンダーテクニークの本を寝る前に結構真面目に読んでた(笑)。


頼られると嫌と言えない人。自分が出来る事なら全力で可能な限り期待に応える人。男とはそういうもんだと、そういう役割を進んで引き受けた人。世の中に出てから知ったけど、実はそんな男は少ないね。父は大変レアな人だった。多分凄く集中力があった好きなことに対しては。色んなことを面白がれた人。一生懸命になれた人。おしゃべりで愉快で、基本的にとっても良い人で、ずっこけてて、なんか笑える存在。
人の話を聞くのが下手だった。我慢強く、深く物事を味わうのが下手だった。議論の最中に目的が相手をやっつけるためになって、大炎上することもしばしばだった。世の中の見方は二元論。敵か味方か?上か下か?男か女か?長男か次男か?強いか弱いか?戦う相手か守る相手か?
family history もあって、”二番目の女の子”の私とは最後の最後までぶつかりあった。


父は本当は俳優になりたかったそうだ。父の口から明確には聞いたことが無かったように思うけど、
高校時代の友人に、かなり本気で語っていたそうだ。父が亡くなったことを後から知って、お参りに来てくれる古い友人がいる。偲んでわざわざ来てくれる。大学時代には東京の劇団に入りかけてた。だけど当時、百万遍にあった祖父の写真館は借金まみれで火の車。当時は父の弟も妹もまだ中学高校で、父がやりたいことに向う人生を、実家の事情が許さなかった。祖父に東京から引き戻されて、いや祖母かな?父は母親を愛していたから、母親に泣きつかれて、自分が本当にやりたかったことを諦めた人。というと、実家の犠牲になったみたいだけど、本当は飛び出そうと思えば出来たと思う。でも父はそうしない人生を選んだ。その役割を引き受けた。天井の有る中で、枠の中で、空気の重たい京都で、引き受けた以上は期待に応えようと、精一杯楽しんで飛んでた人。多分小学生の頃に、何かそんなことについて父と話したことが有った。なんでやらなかったの?と聞いたのか。そしたら「お前は生まれてないわな~」と、ちょっとはぐらかした答えだった。祖父の写真館は時代の流れの中でどうにもならなくて、世の中は自分でカメラを持つ時代になってた。写真館でわざわざ写真を撮る需要は無くなってた。高度経済成長時代。父は不動産会社に就職して、実家の家計を支えて、その時営業成績一番で表彰されて、記念にもらった掛け時計がなんと未だある!?我が家は何回も何回も引っ越ししてるのに、その時計は捨てずにずっと持ってたんだ。本当に嬉しかったんだろう。きっと父は大げさに喜んだんだろう。そして自分の会社を設立して独立。一時は羽振りも良かったけど、私が中学二年の時に倒産。その倒産の誘因は知人の借金の保証人になったことだって言うのも笑えるというか、父らしいというか。男なら頼みに応えるべし!と思ったんだな。あの当時の家に、しばらくとてもダンディーなおじ様が住んでたことが有る。身を隠してたのか?時々きれいな奥さんと小さな子が来たのを覚えている。あの人の保証人だったかどうかは詳しくは知らないけど、でも、あげくに自分が倒産して京都に居られなくなり、夜逃げして、母とも離婚し、東京に逃げた。そして・・・父は劇団に入るんだな~(笑)自分が本当にやりたかった演劇をやり始める。責任を引き受けた人生が頓挫した時、倒産して、夜逃げした挙句に、40幾つにして本当にやりたかった事をスタートする。劇団の研究生としてレオタードはいちゃって訓練を受ける。父が東京で40幾つの青春を謳歌していた反面、残された母と私と姉は、突如として生活保護受給者の極貧生活に至った。高校生だった姉は影響しなかったけど、私は転校を余儀なくされた。母子家庭の生活保護受給の転校生。孤立した。惨めで寂しかった。悔しかった。なんで私ばっかり~!って、みんな大嫌いだったな。大人も子供も大嫌い。父なんか大嫌い!この傷は大きくて、10代~20代は、喜怒怒ドドドと怒りの爆弾を抱えてたね。大学への進学を諦めたのは、家庭の経済的な事情と、転校して安心と安定が失われた生活の中で、私はすっかり勉強が出来なくなった。転校してから後、中学高校と、正直あまり記憶が無い。不登校が今ほど社会的に受け入れられてなかった時代。母を心配させないためにとにかく学校には行ったけど、まったく全てがつまらなかった。半分腐ったように、ただ息を殺して時間が過ぎるのを待った10代。そうそう、毎晩、凄い歯ぎしりしてたのは10代から20代。怒りと悔しさで全身力んでたんだねあの頃の私は。可哀そうだったね。

私の演劇事始めは、その父が居た劇団の北海道ツアーに同行した事から。これも可笑しい。父のお陰で自分は真っ暗な青春時代になってるのに、その父が転がり込んだ劇団のお陰で、生きる気力を取り戻した自分がいた。ツアーは中学二年から三年の春休みの間。多分2週間くらいだろうか。全てが初めてのことばかり。めちゃくちゃ楽しかったんだな。めちゃくちゃ生きてる実感があったんだな。本気でモノづくりに没頭する大人達。議論も喧嘩もあった。貧乏なくせになんだかキラキラしてる大人達。京都の私の周りにはそんな大人居ないし、もしかしたら中学生の私より目がキラキラしてる大人達。そのツアーから京都に帰る日、札幌の近くの小さな駅。何人かの劇団員が見送りに来てくれて、電車が着く前から涙が出てきて、電車のドアが閉まるともう止まらなくて、バシバシドアを叩いて、声を上げて泣いてた。振り返ると電車内の農家のおばあさん達が、もらい泣きして涙を拭ってて、夕日がデカくて赤かった。そこからもうね、決めたね。自分が生きてるって実感持てるところで生きて行こうって。自分の人生を自分で決定することが出来るようになるまでは、息を殺してやり過ごそうって。高卒で東京に出て、事務職の正社員として就職して、夜間の舞台芸術学院のミュージカル科に通った。

数行で簡単に書いてしまった父の人生と私の10代。
父の人生はその後も亡くなるまでアップダウン。
紆余曲折を経て・・・その紆余曲折がまあ普通じゃないけど、まあそれは又別の機会に。
最晩年に芦見谷に住み始めて芦見谷で人生を閉じた。
面白おかしな喜怒怒怒・・・いやそれだけじゃない。父はよく爆笑を誘ってた人生だった。

そうそう、その父を東京から引き戻した祖母の50回忌が今年あった。私は祖母にとてもよく似てるらしい。
60年安保の頃高校生だった父は「女性は解放されなければならない!」って出会ったころ母に良く言ってたらしい。母の実家は、その頃は安定した公務員の家庭で、祖父も祖母も仲良しだったから、何をこの人は言ってるんだろう?って、あんまり良くわからなかったらしい。
父の指した女性とは祖母のこと。祖父の横暴に、DVに、女癖に耐え忍んだ明治の女。54歳(若いね~)で亡くなった自分の母親。この祖父、須川の爺さんのエピソードも色々と尽きない。私の中の爺さんの記憶は、なんか何時も怖い顔してた人だけど、少し年齢の離れた従兄弟に聞くと、めちゃくちゃ優しかったお爺ちゃんなんだって~!・・・人は変わるのか?それとも祖父と父との確執から、私には笑顔を向けられなかったのか?その祖父も今年38回忌で、夫婦仲良く同時に法要。これも可笑しいな。祖母は傍目には祖父のお陰で、苦労苦労で早死にしたようだけど、やっぱり祖父を愛していたのかな?夫婦のことは夫婦にしか分からない。

いま、現代に生きる私が思うのは、「解放されなければならないのは男じゃないの?」って件。生前の父とも話した。父自身のことをズバリ指すことは私にはできなかった。あくまで一般論として話したことだけど、私の中でイメージとして繋がってるのは、戦時体制下の日本で、兵隊としてどうせお国の為に死ぬからと大事にされた男と、現代日本で過労死しても働き続ける男のイメージ。相変わらず毎年何万人も自殺者を出す日本。世代を越えていじめが蔓延する日本。(いじめは軍隊の中では日常茶飯事。自衛隊や警察、消防など、制服組織の中でも日常茶飯事)勝て~!出世しろ~!と煽られて、甲種乙種、勝ち組負け組とレッテル貼られてる。日本は実はずっと戦中なんじゃないか?戦後だったことなんか本当はないんじゃないか?精神を病んだり、自殺にまで追い込まれるのは、個人の資質じゃなくて、この国の構造の問題じゃないのか。


父が亡くなって、母と私が残って、自然が厳しい不便な芦見谷でどう生きていくか。
父が去って、母子家庭になった40年前と同じなんだけど、違うのは、今の私は大人の事情に振り回される無力な10代じゃないという事。十分に経験を積み、相手と交渉する言葉も持ってる。方法も知ってる。何が最良なのか?自分で判断出来るし、その上誰かに相談も出来る。
去年は、男手の無い芦見で冬が越せるのか?と。ライフラインの無い特殊な芦見谷は維持費もかかる。自家発電の機材故障とか、ホントにいきなり高額の出費があるけど、今年のGW以降のキャンプ場の人気のお陰で、ちゃんと維持費が出せてる。維持だけでなく
新たな投資も出来てる。
去年は台風が何度も直撃して、イベントが流れて、キャンセルも続出で、谷の道も何度も崩落して、事務所も吹き飛んで・・・父が亡くなる前の二か月は次から次へとトラブル続き。父の亡くなり方は、精魂尽きて、次の一歩が出せなくて、ばったりうつ伏せに倒れるみたいだった。父が最後に目にしてた、芦見を取巻く光景があまりにも悲観的だった。春頃から、自分の体力の限界を感じていたんだろう。あの強気な人が、「お前どうするつもりなんや!」と私を罵倒していた人が、「ここはお前に任せた」と何度か口にした。

あと半年生きててくれたらなと思う。
芦見谷に来るキャンパーの喜んだ顔に会えたのに。
父が手作りした芦見谷のあの空間に子供たちの声が響いて。
興奮した明るい顔を見てもらえたのになと思う。
「楽しかった~又来ます!」って声を聞いてもらえたのにな。
きっとだみ声張り上げて「待ってるよ~!」て、答えたと思う。


今日は、関電に行ってきた。
電気を通してもらいたいという話。
電気もだけど、一番は電話。
父が亡くなって母が一人になって、緊急時に電話出来ないってのがホントに心配。
芦見谷の電気事情には歴史がある。今は自家発電。
父は20年以上前から電気を通したくて、
関電との交渉、地元にも同意を取って、交渉を重ねて来たけど、未だ通らず。
この現代日本で何でかと思うでしょ?
これは技術の問題ではなく、人間問題。
電線が通ることを拒んでる地主が居るから。
なぜ? I don’t Know~!
理由はそれなりに言う。でもその理由に対する解決策をこちらが示しても、やっぱりダメだって言い張った。
つまり、気分的に嫌なのかな。なんか、嫌なんだろう。何か合理的な理由は無い。もうはっきりって意地悪だな。
理由の分からない行動をする人は、その人なりの正義感があるのかも知れないなと思う。どんな人も、人に意地悪をしても自分はちっとも心が晴れないよ。むしろ嫌な気分になるんだ。しかし、そんな嫌な気分になっても、何かそうすることが”正しい”という思い込みがあるのかも知れない。自分はこんな嫌な思いをしてまでも、そのことのためにやってる。正義を守った的な・・・さらには、こんな嫌な気持ちにさせるあいつが悪いと、逆に恨んできたり。これは困るのよ。シンプルが一番だよと教えてあげたい。

ちょっと逸れるけど、あんたのせいで!と、あんたのために!は同じ。肥大していくと暴力的?病的?
「自分がそうしたかった」に立ち返れたら、ずっと人生は楽しい。心も健康。


父が亡くなって一年。私が今度は表立って電気開通交渉再開。
私は父とは違う。違う人間だ。(ここを母がごっちゃにするんだな~)
二元論的な考え方は取らない。
人間話せば分かる?どうかな?人間同士なんだから、言葉を使って分かり合う事は放棄したくないとは思ってる。父が亡くなり、こちらは代変わりした。あちらは、さあどうか?何を望んでるのかは、今回の交渉で見極めたい。気持ちが分かり合えないなら、電気開通は又見送りでもいい。私は無理を通して道理が引っ込むことはしない。がむしゃらにこちらの要求を飲ませたい訳でもない。
勝ち負けじゃないから。


そうそう、パパになった甥っ子は、二年前に大卒で不動産会社に就職した。
「祖父が不動産をやってましたので興味があって」と面接で答えたんだって。

これも面白いね~